2018-05-23

美春駒・子育て木馬

西田町高柴デコ屋敷では、美春駒が昔から作られている。

延暦十四年の昔、坂上田村麻呂将軍が、大滝根山の洞窟に住む大多鬼丸という賊の征討に、京都を出発しようとしたとき、京都の清水寺の開祖といわれる僧延鎮は、五体の仏像を刻んだ残りの木材で、鞍馬百匹を刻み、田村麻呂将軍に贈った。

将軍は、それを鎧櫃に納めて、征夷の途についた。やがて、戦いは開始されたが、官兵は京都からの長旅の疲れのためか、苦戦であった。

そのとき、鞍馬百匹が官兵の陣営に走り込んで来たので、兵たちはその馬に乗って、大滝根山へ登り、ようやく大多鬼丸を亡ぼすことができた。

ところが戦いが終わったら、鞍馬百匹はどこへともなく消え失せてしまった。

翌日、官兵が帰り道、三春近くの高柴村にさしかかると、道端に一匹の木馬が汗にまみれて倒れていたのを、里人の杵阿弥(きあみ)というものが拾い
「これは、延鎮の作の百匹の木馬の一匹である」
と聞き、九十九匹を自分で作って補っておいた。

三年後には、この拾った一匹も行方がわからなくなったので、九十九匹を、杵阿弥(きあみ)の子孫に残したといわれる。

子孫は、この駒を模作して里の子どもに与えたところ、これで遊ぶ子どもは健やかに育ち、子どもの無い者も、三粒の大豆を餌として、毎日木馬に供えると、必ず子宝に恵まれるといわれ、また、疱瘡(ほうそう)や麻疹(はしか)も軽くなるといって、誰いうともなく「子育て木馬」と名づけられ、今に伝えられている。

西田町 橋本広吉

『郡山の伝説』
昭和61年3月10日発行
監修 東洋大学教授・文学博士 大島建彦
発行 郡山市教育委員会
編集 郡山市教育委員会社会教育課

タグ: ,
関連記事

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です